冬のそら

「山形はね、冬になるとずっと灰色の空。毎日雪が降って、青空を見ることがない。慣れてない人が転勤なんかで行くと、住むの大変よ。」

 

母からはよくそう聞かされていた。

父の仕事の関係で東北各地を点々としていたのだけれど、山形の新庄市に住んでいたときのことを聞くと、いつもこんな答えだった。

南東北の、その中でも一番南のほうの出身である母にとっては、新庄の生活はあまりいい思い出はないようだった。

親元から遠く離れ、周りに友人知人もなく、小さな子供を連れて突然雪国で生活、というのは、ものすごく大変だったんだろうなあ、と思う。

 

私はその新庄市で生まれた。

小さい頃なので全然覚えてないけれど、背丈よりも積もった雪の中で、雪かきをしている父の写真は残っていて、すごくいい写真だと思っている。

「冬場は窓が雪で塞がるから窓を開けられなかった」

「帰省から戻ったら、道路から駐車場から全部雪かきしないと入れなくて、それ以来冬の帰省はやめた」

「父は雪道を絶対運転したくなくて、駅の反対側のスーパーまで雪の中子供二人を抱えて歩いていった」

などなど、雪にまつわる話はたくさん聞かされた。

 

雪ほど、生活に影響を与えるものはない。

冬になれば毎シーズン遠慮なく降ってきて、移動には倍の時間がかかるようになり、何なら出かけること自体不自由、雪下ろしにも危険が伴う。

山間部や豪雪地域に住む人の大変さなんて、私には想像もできない。

 

でも、なぜか山形に暮らす人たち(山形に限らず積雪地域全般でもあるけど)には、それらをすべて「受け入れている」ような雰囲気を感じる。

だって降っちゃうんだもん、そりゃあ雪はいやだけどさ、ここに住んでるんだし、しょうがないじゃん?という。

私はその感じが、すごく好きだ。

 

そうだよね、仕方ない、降るんだもん。なんとかするしかないよねぇ。

生きているなかで起こるいろんなことに対しても、こんな感じでありたいなぁ、と思う。

 

 

今年は、山形に移住して、二度目の冬。

去年はあまり気にならなかったけど、たしかにどんよりした天気が多く、青空を見ることが少なくなった。

ひとりぼっちでこの灰色の空は、たしかにメンタルにくるなぁ、とすこし実感した。

 

でも、山形の春はとても穏やかであざやかなことも、1年住んだからこそ、知っている。

だからなんとかなる、大丈夫。

 

春になったら、また新庄に遊びにいこう。

 

ひとりで過ごすこと

今月末で、いまの会社を退職する

1年と少しを過ごしたこの会社でのことを、勤務時間以外の時間(家に帰ってから、とか、休みの日に、とか)を使って、引き継ぎ用にまとめたりしている

自分で受け取りきれなかったもの、噛み砕けなかったことを、文章に残すことの難しさに苦しんでいる

 

そして、最近、私にとってとても大切なひとが、急病で入院した

いまは連絡がとれない

大切なひとが、いまどこにいて、どんな状態で、退院できるのかどうかとか、何もわからない

 

ただはっきりしているのは、これから先しばらく、私はひとりで過ごすということ

これまで、週末は当たり前のように、大切なひとと一緒に、買い物したりごはん食べたりして過ごしていて

でも突然、週末だけじゃなく、クリスマスも、年末年始も、年が明けてからの就職活動のあいだも、その先も、ひとりで過ごすことになった

 

先週あたりは、まだ大丈夫だった

でもいまは、寂しくて不安で怖くて悲しくて孤独でたまらない

 

寂しさを紛らわせようとして、自分は平気だ、と言い聞かせて、

この週末は好きなコーヒーを飲みにいったりスイーツを買ったり、料理をしてみたり、いろんなことをしたけれど、

そのどこにも大切なひとがいないことがよけいに寂しくなって

 

きょう、最終手段で行った図書館で孤独感が爆発し、呼吸が荒くなり動けなくなった

こんなにたくさん人がいるのに、私を知っている人がいない、という、社会的な孤立感、孤独感みたいなものが、お腹のあたりをぐいぐい押してきて吐きそうだった

 

こんなに自分は弱かったのか

こんなに誰かに頼っていたのか

ひとりで生きてるつもりでいて、ひとりが好きなつもりでいて、でも本当はその人がいたから大丈夫だっただけ

好きなことも楽しいこともおいしいごはんも、その人と共有したかったんだ、と

 

死ぬことはこわい

でもそれ以上に、あとに残されることのほうが、いまは怖い

私はその孤独感に耐えられる自信がない

 

気が狂いそうだった、叫びだしそうだった

なんとか図書館のその場から離れ、姉に電話をした

雪がちらつきどんよりした空の下で、子どもみたいに泣きながら話した

 

姉はちゃんと聞いてくれて、つらさを認めてくれたり、女性が自立して働くことの難しさと妥協点を話してくれたり、あと私が次の仕事を決めないまま会社をやめることをちょっと怒ったりした

 

なんだかんだ1時間くらいいろんな話をして、最後は「唐揚げ定食と同じくらいの値段のハンバーガーが、どれくらいおいしいのか家族で食べに行ってくる」と姉がいうので、じゃあ食べたら感想教えてねと笑って、またねと電話を切った

 

話したせいなのか空模様が僅かに回復したせいなのか、ほんの少し気持ちが楽になった

でも明るいうちに家に帰るのはつらくて、またふらふらしてから、帰宅した

 

いまも気持ちはざわざわしている

ほんの少しタガが外れれば、泣いて泣いて叫びそうだ

いっそのこと気が狂って保護されたほうが楽なんじゃないかと思うくらい、ぎりぎりのバランス

 

それでも時間が過ぎれば朝はくるし仕事もある

その仕事もやるべきことが多くて、期待されることが大きすぎて、プレッシャーは凄まじい

これに関しては、自分で自分を追い詰めているところもある

 

姉には

・真面目すぎるのはあんたのいいとこでもあり悪いところでもある

・できないことはできないでいい

・休みの日はちゃんと休んで絶対仕事をするな

・まあいいかの精神を身につけよ

とのアドバイスをもらった

 

でも私は性格的にそれができず、逆に自分で自分を責め傷つけることで周囲の評価から心をガードし、この歳まで生きてきた

姉曰く、私の自己肯定感の低さや思考の傾向はかなりの重症で、カウンセリングなり入院なりで治療すべきレベルであるそうだ

そう、私もそう思う

 

生きづらい

私は生きるのが下手だ

 

念のため、大切なひとは、別に死んだわけではない、死ぬ病気ではない

いま戦っていて、いつかは退院する

それでも私は、この短期間でさえ連絡がとれないことにこんなにダメージを食らうのだ

さらには、再び会えるようになったとしてもいつか自分がこの世に残されてしまうことまで考えて、気が狂いそうになっているのだ

私自身のほうが危ないのかもしれない

 

会社にいても、ひとりでいても、この孤独感からは逃れられない

だからこそ、自分を支える何かを、自分の中に持っていなければいけない

その何かをずっと問いかけていて、好きなものはいくつかあるけど、持ち前の自信のなさがそれを片っ端からつぶしていく

 

ときどきは、自信とか失敗とか関係なく、心が動いた方に行ってみるほうがいいのかもしれない

 

唐揚げ定食並みの値段のハンバーガーを食べるみたいに